自治体職員として生きる~コミュニティと公共空間への関心から~

風見正三先生(左)、東海林伸篤(右)

私は、東京の世田谷区に建築職として勤務し15年目になります。2008年に経験職採用として入庁し、庁舎や学校や清掃工場等の公共建築の整備、街づくりや環境政策に関わって参りました。2015年に社会人として宮城大学大学院事業構想学研究科博士後期課程に入学し、7年の歳月を経た昨年3月に博士号(事業構想学)を取得しました。学位申請の要件となる査読論文については一昨年の学会誌「地域活性研究」にも掲載いただきました。審査やご指導をいただきました先生方に謹んで御礼を申し上げます。私は高校まで埼玉県川越市で育ち、日本大学理工学部建築学科の在籍時から同大学院修士課程そして社会人経験を含む20数年の時を経て、絶えずコミュニティそして公共空間のあり方に強い関心を持ち続けてきました。その原点は祖母の出身地である長野県小諸市平原で過ごした子供時代の夏にあります。遠くの神社からの湧き水が水路により集落の家々の裏庭を流れ、母屋を含めて計3棟の家屋が中庭を囲んで配置される空間に親戚一同が集まり生まれた、あたたかなコミュニティの空間体験が、地域社会と公共空間のあるべき姿への関心につながっています。人々のふれあいにより生まれるあたたかなコミュニティの空間をふたたび再現できないか?という憧憬がいつも心の根底にあります。コミュニティや公共空間をテーマにしたときに、勤め先として、結果的にしっくりきたのは自治体職員でした。一方で、これまで建築の側面から仕事に関わって参りましたが、施設整備というハードとして取り組む仕事にも限界があります。市民活動やNPO・NGO活動への参画を通して、自身の関心へのバランスをとってきました。本レポートでは、自治体職員として仕事をすることになった経緯や、問題意識や関心を含めて記述させて頂きます。

コミュニティや公共空間への関心と仕事への関わり方の模索

建築学科時代は、セミナーハウスやオフィスビル、図書館や美術館など様々な建築をゼロから構想していく設計課題が出題されましたが、子供時代の夏の経験が根底にあり、毎回の提案は水路や水辺空間と家族や人々の関わりというコミュニティを基点とした提案を行っていました。コミュニティに関することを仕事にできないか。という思いがありましたが、就職先としてどの方向で働けばその思いが満たされるのか?就職活動では、いくつかのアトリエ建築設計事務所でのアルバイトなどを経験しましたが、建築は形をつくる仕事です。自分自身の関心は形よりもプロセスや関係性の構築、あるいは仕組みづくりにあるということを、おぼろげながら認識している状況でしたが、具体的な目指すべき就職先が分かりません。結果的には、就職活動時期も終盤となる中、内定をいただいた民間企業の建設事業部門に就職することにしました。最初の配属先は建設現場の施工管理業務。建築は土を掘って鉄筋を組みコンクリートで基礎をつくるところから始まり、柱や梁や壁という構造躯体が出来上がってから、内装工事へと進みます。建築工事の進行とともに、土工や鳶、鉄筋屋などから、木工建具や家具屋など、職人の気質も変化していきます。現場を支える人々とのふれあいの中で、社会の成り立ちなどを深く体感し、現実に形として日々工程が進む現場の中で様々なことを学びました。一方で、施工管理業務は定められた図面を寸分違わず正確に作りだす仕事です。建築を川上段階から考え、公共空間のあり方を考える仕事に携われないかという思いを改めて強くするようになりました。

社会人4年目の転機と公共建築への関わり、自治体職員への道

東京や栃木や神奈川の現場業務の3年間が経とうとするとき、建築雑誌「日経アーキテクチャー」に、国土交通省官庁営繕部の外郭団体である一般社団法人公共建築協会(当時、社団法人)のプロパー職員募集の記事が出されました。公共建築のあり方から考えられ、コミュニティの空間づくりに近いことができるかもしれないと応募しました。昨年末に逝去された建築家の故磯崎新氏がNHK番組で述べていた「建築は楽観的なのものである」という言葉に触れ、建物を作る前段階に検討する仕事に携わりたいという気持ちを論文と面接でアピールし運よく合格しました。公共建築協会での仕事は、それまでの地べたに関わる仕事から一転して、俯瞰的に街や建築プロセスを捉える仕事であり、設計者選定方式の一つであるプロポーザル方式や、官公庁施設を核とした街づくりとしての「シビックコア地区整備制度(国土交通省)」を活用した国や地方公共団体の公共建築整備など、各種調査・検討業務に関わらせて頂きました。北は北海道、南は沖縄まで出張し各地方都市の公共建築と街づくりに触れる中で、市民ニーズを満たす公共建築や街づくりとそのプロセスの重要性を感じるようになりました。こうした中で、世田谷区の住民参加型の街づくりの取り組みと、卯月盛夫氏や故原昭夫氏という元世田谷区職員の活躍を知りました。学生時代に好きだった象設計集団設計の沖縄県名護市庁舎が、都庁勤務を経た原昭夫氏が当時名護市職員として、地域住民との膝詰めの議論の末に全国公募のコンペを企画し実現した取り組みであることを、著書の「自治体まちづくり:まちづくりをみんなの手で!(学芸出版社、原昭夫著)」で知り、自治体職員もやり方によって可能性に満ちた仕事であること、コミュニティという用語を仕事上使っているということなどを知りました。東京23区が経験職採用を初めて行うことになり、世田谷区の職員になれれば転職しようと考え、論文試験と面接を受け、晴れて区職員になることができました。

2014年1月原昭夫氏との沖縄旅行。大宜味村の芭蕉布作家平山ふさえさん工房にて(左端:原昭夫氏、右端:筆者)

2014年1月原昭夫氏と訪れた名護市庁舎

プライベートでのまちづくり活動

公共建築協会在籍時には、当時東北芸術工科大学で助手をしていた友人の誘いで天童温泉のまちづくりに個人として参画しました。「天童の森」をテーマに、地元の旅館経営者の勉強会が2年間に渡り開かれ、建築家、ランドスケープデザイナー、文化財研究者、経営コンサルタントなど様々な分野の専門家が集まる中で、私自身の専門性として何ができるのかが、問われる場でした。地域通貨、グラウンドワークなど様々な文献にあたり、活動現場を訪れる中で出会ったのが1999年に出版された「コミュニティ・ビジネス(著者:細内信孝/コミュニティビジネス総合研究所、中央大学出版部)」の概念であり、この考え方をもとに、持続的な街づくりの取り組みを地域資源を活用しながら住民主体の力で実現していくプロセスを提案し、町の方々に受け入れて頂きました。また、出身地である地元川越では、設計事務所を営む建築学科の同級生の伝手でNPO法人川越蔵の会に入会し活動に参加させていただくようになったのもこの頃です。地域のお寺である養寿院のお茶会や歌詠の会、実測調査、各種イベントなど、微力ながらお手伝いに参加するなかで、「町のために人肌という脱ぐ」という川越商人の方々の気概にも触れました。その縁もあり、川越の仲間から川越スカラ座の再生活動への誘い受けました。大正時代に寄席として始まり昭和に入ってから映画館として営業を続けていましたが、支配人の高齢化により閉館を余儀なくされました。これを当時30代の川越出身のメンバーが主体となり、NPO法人プレイグラウンドを立ち上げ、活動初期には約700万円を超える寄付金を地域から集め、5年で事業を軌道に乗せることになります。私は役員としてこの活動に参画しました。

まちづくりに関する研究及び執筆等の活動

天童温泉の街づくり活動を通して「コミュニティ・ビジネス」の概念を知り、コミュニティ・ビジネス・ネットワーク(理事長:細内信孝氏)の定例会に顔を出す中で、翌年には運営委員となり、その次の年には事務局長として、全国のコミュニティ・ビジネスに関する調査研究や、執筆活動等に取り組むようになります。メンバーと共に「コミュニティ・ビジネスのすべて―理論と実践マネジメント–」(ぎょうせい)を共同執筆するとともに、2020年には細内信孝氏と共著で「人にやさしい仕事-3人の社会企業家から学ぶ18の生きる知恵-(コミュニティビジネス総合研究所出版部)」、2021年には、単著「コモンズ・デザイン~コミュニティ・ビジネス活用による公共空間イノベーション~(コミュニティビジネス総合研究所出版部)」などを執筆します。コミュニティ・ビジネス・ネットワークでのご縁で、当時大成建設社員でその後宮城大学教授に就任した風見正三先生と出会い、その後、日本計画行政学会のコモンズ専門研究部会(代表:風見正三宮城大学教授、副代表:故保井美樹法政大学教授、顧問:細野助博・中央大学名誉教授)の活動に10年に渡り、委員および事務局として関わることになります。当研究部会は計50回開催され、行政、大学、NPO、企業等に所属する各専門家と共に、公共空間やコモンズに関する議論を重ねました。さらに、この研究会活動に関わるようになり、風見先生よりお声がけを頂き、冒頭に記載した通り、社会人として宮城大学大学院博士後期課程に籍を置くこととなります。7年間の在籍期間を経て、昨年2022年3月に博士号(事業構想学)を取得しました。博士論文は岩手県紫波町オガールプロジェクトを題材とし、関係者の皆様へのヒアリング等のご協力を得てまとめました。タイトルは「持続可能な地域社会の形成に資する官民連携による公共空間の整備・運営マネジメントに関する研究」です。博士号の学位申請には、査読論文の論文誌への掲載が要件となっており、地域活性学会の他、国際P2M学会、日本環境共生学会の3つの学会で、何とか掲載頂くことができました。博士論文については、昨年12月に日本不動産学会より学会賞(湯浅賞/博士論文部門)を授与頂きました。地域活性学会では、永松俊雄先生他の論文講座基礎講座など、受講をさせていただき、特に、永松先生からは懇切丁寧に数々ご指導を頂き、深く感謝しております。

2022年12月日本不動産学会賞授賞式にて原科幸彦会長とともに(後列右から二番目:筆者)

自治体職員としてのこれまでとこれから

世田谷区職員としては、庁舎計画担当課、街づくり課、東京二十三区清掃一部事務組合、教育環境課、経理課(建築検査担当)をそれぞれ2~3年ずつ経験し、現在は環境政策部の環境・エネルギー施策推進課において環境施策の立案や推進に関する業務に関わらせて頂いております。自治体職員は地域の思いを形にしていく仕事ですが、町会・自治会に関わる方々が高齢化し、街づくりには一部の熱心な方々が関心を持ち関わる中で、市民の総意が何であるのかを捉えることは非常に難しいと感じます。議会制民主主義のあり方に加えて、ICTやAIやDX技術等を積極的に活用し、効率的かつ効果的な民意の反映を意識し行政施策を推進する必要性も感じます。当時世田谷区企画部都市デザイン室長だった原昭夫氏が、1992年4月の雑誌“建築東京”に「街医」としての建築家という文書を掲載していました。“施主の要求や意向だけを聞いてかたちにしていく仕事でなく、作家として華々しく作品をつくるだけの仕事でもなく、地域の環境のありようを、地域の中で人々と共に考えながら、建築を通して実現していく、「街医(がいい)」としての建築家の出現を夢みている。”

私が自治体職員を志し、目指してきたのは、原氏の語った「街医」としての建築家だと思います。年が明けた今、気持ちを新たに、この建築家像に向けて進んでいきたいと思います。

 

 

1992年4月建築東京原昭夫氏執筆記事「街医(ガイイ)」としての建築家

Writer:東海林伸篤