JKの今村智子です。市役所で事務職をしながら、博士後期課程に在学中です。今回は、どのように地域づくりと関わることになったのかをお話しします。
空っぽの人生
私は就きたい職業や、やりたいことが見つからず、流れで大学に入ったが、これといって興味を持てることは無かった。そして大学中退を繰り返していた。23歳の時、また大学を中退するつもりで学部長のところへあいさつに行った。その時、E教授はタバコをくゆらせながら、ゆっくりと私にこう言った。「君さ、一度大学を卒業してみたら。明日から僕の研究室に来なさい。ちょうど秘書がいなくて困っていたんだ。外国からの電話やお客さん、相手できるでしょ。僕の研究分野はとてもおもしろいよ。あ、、、興味ないか。。。この部屋にある本を全部読みなさい。」私は、とりあえず大学を卒業して他の大学を受験しても2年しか変わらないし、E教授に言われたとおりにしてみることにした。E教授は忙しく、ほとんど大学にいなかった。留守番の私は、エアロゾルの本をひたすら読んだ。次第にエアロゾルに興味をもち、一年後、E教授の下で論文を書き、卒業してしまった。私はロストジェネレーションど真ん中。しかし、ありがたいことに就職内定通知が次々届いた。一方、親は地元から出ることを絶対に許さなかった。私の下宿の荷物を勝手に実家へ持ち帰り、下宿を解約していった。しぶしぶ親が願書を書いた市役所の試験を受けに行った。そして、不幸にも合格してしまった。
カタクリ100万本の里づくり
林業分野に配属になり、有害鳥獣対策、里山再生や森づくり団体の育成を担当することになった。そこで、矢村のTさんとの出会いがあった。Tさんは森づくりに熱心な方で、百名山・荒島岳を整備するため、会を作り多くの会員を集め、毎日、朝は山の整備、午後は市役所へ整備の協力依頼のために来ていた。Tさんは、ある日、窓口で言った。「荒島だけでなく、地元の裏山の整備をしたいんや。去年、青年会でうっそうとした里山を整備したら、春にカタクリが咲いたんだよ。そういえば、子供の時、カタクリがいっぱいある山だった。」それから、Tさんと私の二人三脚が始まった。Tさんは、矢村をひっぱり里山を整備する、私は、補助金を探して申請し資金を集める。整備した山肌には次の春、一面びっしりとカタクリが咲き誇った。村の人たちは集まって里山整備をするうちに仲良くなっていった。
カタクリ畑は広範囲に広がり、「自分たちだけ楽しむなんてもったいない」と、かたくりまつりを開催し、里山を一般に開放した。カタクリは人気があった。大型バスで多くの観光客が訪れた。とれたて野菜や手作り料理の物販をしていた女性たちは、観光客と話すことで、自分たちが今まで気づかなかった村の良さに気づかされ、矢村に住んでいることを誇りに思うようになった。まつりには子供が出てきて、観光客を案内するようになっていた。私は、活気みなぎる矢村を地域づくり表彰に応募した。すると、色々なところで評価された。表彰の度に、私は村の人と大阪や東京へ出かけて行った。都会へ行く、それ自体が田舎に住んでいる人にとってはすごいことである。
矢村の結束はどんどん強いものになっていった。新聞や雑誌にもよく掲載され自慢のふるさとになった。あるおばあちゃんが言ってくれた。「嫁に来たときは、こんなへんぴな所に来てしまって、後悔した。いつ出て行こうかとずーっと思っていた。だけど、こんなことになるとは思わんかった。もう、私、出てかんざ。ありがとのう。」
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Writer : 今村智子(地域活性学会員)