記者から研究者、そして博士への挑戦

大崎哲也(北海道教育大学岩見沢校非常勤講師/北翔大学大学院生涯スポーツ学研究科博士後期課程在籍)

 

なんて人生だ。

子供の頃から、腰を据えて長時間調べたり書いたりする作業は大嫌い。

それなのに、50代も半ばに差し掛かろうというのに膨大な論文と格闘し、博士号を目指す旅に出た。

好みと行動は裏腹だ。

大学卒業後、故郷の北海道で念願だった新聞記者になった。脂が乗ってきたのは30歳を過ぎたころ。

全く希望していなかったスポーツ担当部署への異動が転機となった。ちょうとプロ野球日本ハムファイターズが本拠地を東京から北海道へ移した時で、会社初のプロ野球専従取材チームを率いた。ネタはいくらでもある。毎日書きまくった。第1回ワールドベースボールクラシック(WBC)やアジア大会、オリンピックと取材の現場は広がった。言葉を連ね、スポーツの魅力を炙り出した。読者の反響を胸に、新たな素材でまた書いた。チームを率いてディレクションする場面も増えた。自分のやりたいことがどんどん実現した。

40歳。東京勤務のタイミングで修士課程に籍を置いた。ナイター取材が終わってから明け方まで論文を執筆する生活は体にこたえた。それでも脳みそが固くなってきたタイミングで、若い世代との「頭の体操」は刺激も学びも多かった。「いつかはこんな生活もいいかな」。ぼんやり頭をかすめた。

東日本大震災直後、プロ野球東北楽天の選手から発せられた「見せましょう、野球の底力を」。スポーツは本当に地域や社会にとって価値があるのかー。取材する日々が始まった。

人口減少と景気後退。北海道も閉塞感と無縁ではない。一方で、プロ野球、サッカー、バスケットにバレーとプロスポーツが定着。シーズンを通して「スポーツがある風景」に、胸躍らせる人が増えた。

国策で始まった総合型地域スポーツクラブの全国展開。一時「オワコン」とも言われたが、地域社会にスポーツの場を生み出す取り組みで、全国をリードする人材やクラブが道内に存在する。

記者時代から連載などを通じスポーツと地域の関係を考えてきた

見続けたい、書き続けたい。

しかし、日本の新聞記者は会社員。いつまでも現場にはいられない。

どうすれば関わり続けられるか。修士課程の記憶も蘇った。

50歳の春、関西で大学准教授の職を得た。

スポーツを活用した健やかな地域コミュニティのあり方や、組織運営や人材育成、価値の生み出し方について研究する日々が始まった。専門科目以外にもマーケティングを絡めた発想力のトレーニング、論理的思考の涵養や卒業論文指導。取材で培った人脈を使ってゲスト講師も招いた。

諸事情で地元に戻ることになり、短い期間で専任を退いたが研究者への道を諦めたわけではない。

地元でフリーライターとして生活しながら、地域とスポーツの研究ができる大学院へ進み、博士号を目指す決断した。専任教員時代に痛感したことは、研究者としての「引き出し」が足りないこと。思ったほど調査や研究が進まなかった一因だ。実務経験が長い人は「実践知」の強みがあるが、そこに「学問知」でどれだけ理論武装できるかが大切だろう。武装がなければ教員にはなれても研究者にはなれないと感じた。

もちろん、実務面の知見は大事だ。道内のスポーツ関係者とのネットワークは大事にしている。競技団体の役員として運営に携わるようになったが、この経験も必ず生きるだろう。実務もアカデミズムもがっちり固め、ハイブリッドで突き進みたい。

まずは苦手意識を払拭して、腰を据えて博士号取得に取り組む。調査に学会発表に論文と重圧メニューが目白押しだが、知的好奇心を喚起させられている自分に気づく。

なんて人生だ。

でも、悪くない。わくわくする。

学生たちとメジャーリーグの球場視察

プロ野球の地方開催時、地場の飲食物で人々が集う場所ができる。一過性にしない取り組みも考えたいところだ

Writer:大崎哲也