田中 隆(早稲田大学梅津教授と)
下町ロケットは日本初となる国産宇宙ロケットの打ち上げ成功に大きく貢献した佃製作所の話でした。その次に放映されたのが下町ロケットガウディ計画です。佃製作所社長の航平(阿部寛)たちが『人工心臓弁開発』に挑んだ話。今日はそのモデルとなった安久工機の田中隆さんから寄稿いただきました(斉藤)。
大学の研究室や企業の研究所からの試作品設計・製作が仕事
私は、現在66歳で、有限会社安久工機の社長をしています。社名は先代社長(父親田中文夫、故人)の出身宮崎県都城市安久から取ったもの。父親が1969年に大田区で創業し、53年が経つ会社です。仕事内容は、大学の研究室・企業の研究所等からの試作品設計・製作依頼に対応しています。社内で設計し、加工は大田区を中心にした協力工場に依頼。最後に社内で組み立てて完成させる。町工場で人工心臓関係の仕事にも関わっている物珍しさからかマスコミ取材も多く、テレビドラマの「下町ロケット」のモデルとなりました。一方、「町工場でも自社製品開発を!」をモットーに、ニッチな分野で付加価値の高い製品づくりを目指しています。開発製品例としては、視覚障碍者用筆記具「ラピコ」や折り畳み式カラーコーン「パタコーン」などがあります。
視覚障碍者用筆記具「ラピコ」
折り畳み式カラーコーン「パタコーン」
人工心臓開発プロジェクトに参画
創業当時、北辰電機(現キャノン本社の場所にあった)の映写機系精密部品・航空計器部品等の試作・製作に関わっていました。そんな折り、早稲田大学(理工学部土屋研究室)と東京女子医科大学とでスタートした人工心臓開発プロジェクトにモノづくり側として参画することになったのです。父親は学生達が設計した図面のチェック・アドバイスから部品・装置製作に至るまで、事細かに対応していました。今でこそ産学連携・医工連携と言われますが、50年前から行っていたことになります。
お前は安久工機に入るんだろうな
時は過ぎて、私が昭和50年大学機械科修士1年(そろそろ進路を決める)のとき。当時は就職率も上向きになってきた頃で、自分としては就職先を一般企業か安久工機か決めかねていました。そんな時、父親から「お前は安久工機に入るんだろう(な)?」の一言。若気のいたりもあり「そのつもりは無いから!」と、の条件反射的に強気の返事。父親もカチンと来たか「お前の勝手にしろ!」となり、数日間不穏な空気に。改めてじっくり考えると、やはり客先の顔が直接見えて、設計・加工・組立てまでフルコースで関われる安久工機に魅力を感じ、父親に「安久工機入社希望」の回答をしました。
国立循環器病センター研究所人工臓器部所属の研究生になる
それからは入社後の安久工機の進む方向も見据えた展開の仕方について父親と話し合いました。その結果、方針としては①医療関係にさらに重きを置き、②4~5年程度の“丁稚奉公”後に安久工機に戻って守備範囲を広めることで一致しました。父親のツテを辿り、当時大阪の国立循環器病センター研究所(以下国循)人工臓器部所属の梅津研究員(前述の土屋研究室出身で現早稲田大学先端生命医科学センター名誉教授)に打診し、研修生としてお世話になることになりました。1982年から1986年まで、4年間の大阪生活でした。最初は医学用語(主に心臓関係)の学習から始まり、人工心臓製作・人工弁性能試験・シミュレータ設計・動物実験管理&当直・学会発表等、忙しく、しかし、充実の日々でした。4年間の国循生活を通して様々なことを学び、多くの人脈を築くことができました。1986年5月から、正式に安久工機に入社。営業・設計・加工・組立て、一通り関わることとなりました。国循時代の関係施設・医療機器会社等からも引き続き、人工心臓やシミュレータ関係の設計・製作依頼が入ってくることになったのです。
早稲田大学生命理工博士課程に入学
国循時代から安久工機入社以降も早稲田大学理工学部~早稲田大学先端生命医科学センターと、梅津教授のもとで安久工機として人工心臓研究にも関わってきました。2004年(49歳)の時に梅津教授から社会人博士課程の話を聞き、研究業績もある程度蓄積してきたこともあり“一念発起”、入学チャレンジを決意しました。1年間の準備を経て、入学試験も何とか通り、2005年春に早稲田大学生命理工博士課程に入学しました。
おまえにはまだ社長を任せられない
博士課程入学の8か月後に父親(当時社長)が亡くなり、2006年(50歳)から“芋づる式”に社長に就任することになりました。ちなみに父親は生前の口癖は「おまえにはまだ社長を任せられない」でした。2006年から一挙に「社長・社内設計業務・学生」の“3足のわらじ”となり、今思えばよく頑張ったと思います。足かけ6年かかりましたが、博士号取得期限ギリギリで2011年春に博士号(工学)を取得することができました。
博士号授与式での妻と娘と
梅津教授をはじめ、協力してくれた皆さんに“感謝!感謝!”、博士論文の謝辞で綴った最後の文章を紹介します
「最後に、50台半ばでの博士号取得に協力してくれた家族に感謝します。特に自分のこと以上に著者の健康管理に注意し、相談相手ともなってくれた妻葉子に心より感謝します。Thank you・謝々・감사합니다・Merci・Grazie・Gracias・Danke そして ありがとう。」2011年3月は東日本大震災があり、通常3月末に行われている博士号授与式はペンディングとなってしまいました。が、その年の9月23日に博士号授与式が単独で大隈講堂で執り行われました。博士号取得後は町工場のモノづくりや医工連携について講演する機会も増え、この4月からは明治大学理工学部の兼任講師になって、2年生の「機械情報製図」に出講しています。
Writer:田中 隆
下町ロケットガウディ計画(小学館文庫)https://www.shogakukan.co.jp/books/09406536