後になってわかる人生シナリオのありがたさ

福田稔 開志専門職大学 実務家教員

電力さんは地域に密着した会社ではないからね

電力会社のかけ出し広報マンであったころ、タカキベーカリーグループの相談役 高木彬子さん(夫とともに創業 当時専務取締役)を取材する幸運に恵まれた。社内報の特集記事「アンデルセンを食卓に」へ創業者の息吹を与えていただいた。温かいまなざしのインタビューの中で1つだけはて?と思ったフレーズがあった。「電力さんは地域に密着した会社ではないからね」と。入社以来、「地域とともに」と教えられ、供給エリアの産業活性化がそのまま業績に連動する業種だ。ただその経営収支、地域の産業活性化が電力会社の努力の成果かと問われれば、すこし心もとないところもある。そのことをおっしゃったのかもしれない。長らく身を置いたその組織は基本的には足腰のしっかりした、途切れることのない電力供給を誇りとして静かに燃える仲間たちであることは、いまも変わらないと信じている。そんな職業人生のスタートだった。地域活性の文脈では、部署をひと通り経験して2001年から中国電力のインキュベーション施設「SOHO国泰寺倶楽部」を立上げ、インキュベーションマネージャー(IM)になったあたりからだ。何か面白そうなIMという仕事の社内公募に手を挙げたとき、新しいシナリオが動き出した。些細な私事の振り返りに少しだけお付き合いいただきたい。

中国電力社内報(1986年)

拙著「起業家は社会の宝だ」

広島県呉市で育った

少年期は広島県呉市で育った。呉市は1945年の終戦まで海軍都市として栄え、戦後は造船・重工業、そして自衛隊の基地を擁する地方中核の都市として発展した。私は小さな小売業を営む家に生まれたので、小さい頃からお客さんとのやりとりを楽しむような少年であった。やがて大学生になって上京した。下宿の小さなテレビでふと目にしたNHK教育テレビ(当時)「商店経営」という番組にくぎ付けになった。メモを取り画面の写真を撮ってレポートをつくり、センスのいいチラシ、街を彩るお店のファサード(外観)の写真を故郷の父母に送った。商売を好転させて、私学に行く金食い虫の息子への仕送りが途絶えないようにという思いもあったと思う。しばらくして本当に商況は改善し、学生時代の私は“支援”のおかげだと思っていた。しかし後に商売繁盛の要因は支援の成果ではなく、息子が一生懸命心配して送ってくること自体の刺激にあったと今はわかる。つまり“コンサルタント”の助言ではなく、息子からのお節介ではあるが心理的な突き動かしによるものだった。

0から1を立ち上げる壮絶さを知った

冒頭のとおり大学を卒業して地元の電力会社に入った。親の仕事は創造的で楽しそうだとは思っていたが家業を継ぐことは一切考えていなかった。大きな船が通るたびに大波に翻弄される小舟のようなイメージがあった。一方、大型船(大企業)は決まった日に必ず給料をくれるし、あらゆる点で社員にやさしい仕組みがあった。その大型船では燃料を焚いてスクリューを回すような本筋ではなく、広報や企画といった一見賑やかそうなことをさせてもらった。社命で青年会議所や商工会議所青年部にも加入し、地域経済を支えている若手経営者とのご縁をいただいた。これが後にIMの仕事で生きてくる。1996年ひろしま国体の仕事の後、労務部で給与・健保業務などの本店集中化プロジェクトを経験する。ここでは社内規程ではなく国の法律で動いている労務システムを体験し、起業家への助言の幅につながった。時期は前後するが、さらに会社として病院事業を持っており、PETがん検診センターの立上げも経験した。資金調達はなかったが新規事業、今までなかったことを(0→1)立ち上げる壮絶さを知った。

広島県よろず支援拠点 出張相談会

じわじわと自分の中にもアントレプレナーシップが育っていた

転機は2001年に訪れる。広島市役所隣の好立地ながら使われなくなった6畳一間の独身寮を改装して一般向け創業支援施設事業「SOHO国泰寺倶楽部」に電力本体として乗り出すことになった。不動産管理のノウハウはあるが創業支援は前例がない。社員の誰が適性を持っているかわからなかったのだろう。この時だけ社内公募があった。私は社内外の知己の幅広さを強みにプレゼンテーションして選任されることになった。電力会社独特のマネジメント方法は起業や中小企業の支援には役立たない。会社も経営知識の勉強などいろいろ応援してくれたが、役に立ったのは少年期以来の商売の匂いと社内外に広がった仲間だった。SOHO国泰寺倶楽部での創業支援活動は、全人格フル活用でアイデアを出し、公私のあらゆる縁を総動員して仲間の経営者など力を貸してくれそうなところに起業家を連れていき、当たって砕けろで公の経済産業局、県庁、市役所の門をたたき、支援機関や日本公庫、信用金庫や専門家などを駆け巡った。初めは“電力”が何しに来たという感じもあったようにおもうが、趣旨が伝わると肝胆照らす仲間にしてもらえた。やがて起業家の熱に共鳴していく。起業家とむき身の真剣勝負で付き合ううちに、じわじわと自分の中にもアントレプレナーシップが育っていた。

最大の転機は、前出のPETがん検診プロジェクトリーダーを間に挟んで2度目のIMに取り組んでいた時、「転進支援」という名の早期退職制度に手を挙げたことだ。当時社員の97%以上が定年まで勤め上げる社風の中での脱藩、いや起業家としての自立だった。いまも偉いなあと思う “サラリーマンシップ”を捨て、2008年、私は24年間務めた電力会社を退職して再び上京する道を選ぶ。大学卒業以来の東京。歩く速さをギアアップして、東京農工大学の大学発ベンチャー向けインキュベーションの仕事をいただいた。続いて社会人大学院進学、区の産業振興の仕事を経て、新宿区立高田馬場創業支援センターの立上げと創業支援に5年ほど携わった。ここでも地元の経営者、官公庁や支援機関、金融機関、専門家の皆様にずいぶん助けていただいた。高田馬場に本店がある東京三協信用金庫、東京富士大学、区の産業振興課などの参画を得てBaba-Lore(ババロア)という、地域を愛し地元で活動する人の勉強会を立ち上げたのも思い出深い。修道大学にもおられた川名和美先生に第1回の話題提供者をお願いした。

川名和美先生、秋井正宏先生と高田馬場にて

開志専門職大学の実務家教員となる

2016年「起業家は社会の宝」という信念のもと、産業社会にイノベーション環境を整備する人を育てることを目的に(一社)日本イノベーションマネジャー協会を設立し代表理事に就任した。同じ時期に広島県よろず支援拠点のコーディネーターを拝命し、起業家、中小企業経営者の経営的・心理的下支えに力を尽くした。難易度の高い経営支援に従事する者として、自己研鑽の時期を過ごさせていただいた。2020年4月、ありがたいお声がけをいただいて、新潟市に開学する開志専門職大学の実務家教員となる。縁もゆかりもなかった新潟で新たなチャレンジが始まった。専門職大学は職業のプロフェショナルを養成する高等教育機関で、教授陣の半分ぐらいは実務家、産業社会での歴戦のプロが教鞭を執る。私は長期インターンシップと新規事業計画づくりの実習、イノベーションに関する授業を担当している。学生にはアントレプレナーシップを心に燈して卒業してほしいと願っている。人生は節目節目の判断とその蓄積で形成されていると思う。つまり人生は経営そのものだ。だから学生にはいろんな場面での判断や行動を常に経営者的に、自分ごととして捉えることを伝え続けている。小さな商家に生まれ、大人たちを見上げながらの少年期を経て大きな会社に入り、わがままが高じて故郷から飛び出し、東京、そしていま新潟の地で人情の温かみに触れている。あとどのくらいの人生か知る由もないが、若いときに修行の機会を得て、及ばずながら起業家や中小企業との対話、職業教育と研究の分野で能力発揮のチャンスに巡り合い、その本質であるアントレプレナーシップを若い人たちにリレーしている。幾多の失敗に彩られながら、筋書きはないようで有った私の修行旅。埋め込まれた行程表に感謝している。大学の先生と(一社)日本イノベーションマネジャー協会の活動に、初々しい起業家のごとく徒手空拳、奮闘努力していきたい。きっと仕組まれたこの次の行程の準備になっているはずだ。みなさん、これからも明るく豊かに幸せにまいりましょう。