JKと大学研究者の「二足のわらじ」を13年間履いて、大学研究者になって思うこと

叡啓大学ソーシャルシステムデザイン学部学部長・教授 保井俊之 2021年4月に開学した22世紀大学で、広島からグローバルに突き抜ける広島県立叡啓大学で専任教員に。

研究者への道をあきらめて

もともとが卒業後は大学研究者志望でした。大学で経済学を学ぶはずが、リベラルアーツやら国際関係論やらと世の中を「鳥の目虫の目」で見る学問にすっかり魅せられ、唐突に転身。転身後は、うれしい驚愕の日々でした。師事した二人の先生(故・佐藤誠三郎先生、故・中村隆英先生)が正規のゼミの他に「裏ゼミ」として開設していたゼミに入りました。そこで自分の専門のたこつぼを出て、他の研究領域に進んでいくことの大切さ、論文を書きたかったら、まずは一次史料と原データに当たること、を厳しく仕込まれました。なぜかゼミ生は自分一人だけで、週1回開かれるゼミのために十何冊も一次史料を読むすごいことになってしまいました。しかし、二人の先生は古本屋さんに連れて行ってくださったり、学生の目の前で二人の先生がすごい知的バトルをしたりと、研究することの楽しさに気づかせていただきました。しかし、奨学金を貸与いただいていたなど家計の事情があり、研究者志望をいったんはあきらめ、就職することにしたのでした。何となくですが公務員志望で、ふらりと立ち寄った霞が関の経済官庁で出会った人事担当の企画官から、「君は日本が好きか」と聞かれ「好きです」と答えたら、「握手しよう」と言われ、それがその役所に34年間奉職するきっかけとなったのでした。「ここはパンドラの箱のようなところ。日本中の問題という問題が集まるところだから。ここに就職して問題を一緒に一生分解いていかないか」と人事企画官に言われたそのとおり、その後数十年間、日本のみならず世界のさまざまな課題解決の最前線に放り込まれることになりました。

実務家の最後の仕事は、中南米カリブ地域の貧困削減と社会包摂のための国際金融機関である米州開発銀行の日本他5か国代表理事。ブラジル・マナウスの小学校での活動のスナップ。

実務家になって学んだこと

睡眠時間は少なかったですが、毎日は充実していました。研究者になっていたら、研究のフィールドを探し出すことに苦労していたかもしれせん。しかし実務家になったことで、世の中には研究のフィールドが数えきれないほどたくさんあることに気づかせていただきました。研究、特に社会科学の研究は、社会課題の解決に資することを究極の使命としているからです。社会課題の解決のために現場で頑張る実務家は、研究のフィールドを自分で開墾しているに等しいのです。これは素晴らしいアドバンデージです。純粋研究系の世界の「あるある」ですが、研究の師匠から、研究テーマを「おすそ分け」してもらわなくてもいいからです。しかし社会人になってから十数年間が過ぎるころ、ふとした疑問を持つことが増えました。肩書を背負って発言することの多い自分に気づいたのです。自分を組織と同化させれば、相手もそうするでしょう。そうなると対話は成立せず、組織対組織の対決でがんじがらめになってしまう。創造的でなければイノベーティブでもない。そんな自分に自分が幻滅する日々が続きました。

人生の転機となった9-11テロ

転機となったのはちょうど20年前の、2001年9月11日。わたくしは駐在先のワシントンD.C.からニューヨークに出張していて、ワールドトレードセンターのツインタワーにいました。その日、テロリストにハイジャックされた二機の飛行機がツインタワーに突っ込み、タワーは崩壊し、何千人もの方がなくなりました。米国同時多発テロ事件のその現場に、わたくしは居合わせたのでした。そして、まわりでたくさんの方が亡くなっていったのに、わたくしはなぜか生き残ってしまったのでした。それから2年間、PTSDと自分だけ生き残ってしまった罪悪感に苦しみました。しかし不思議とテロリストを憎む気持ちはありませんでした。知りたかったのは、なぜこのような惨事が起こってしまったかということ。それを独力で調べていくうちに気づいたのは、憎悪と貧困と偏見の因果がテロを引き起こしたこと。しかし寛容と公正と幸福の因果が世界を良い方向に向けていけること。そして、世の中の課題を因果関係に注目し、全体俯瞰と知の統合で解いていくシステム思考とデザイン思考というサイエンスがあることを。気がついたら、わたくしはシステム思考とデザイン思考の勉強にのめり込み、数年後には新設のシステム思考とデザイン思考を教える慶應義塾大学の大学院の研究科で教壇に立っていたのでした。研究はときにつらいことが多いです。しかし、研究したいと思ったテーマが心の底から浮かんだとき、研究は頑張り通せます。実務の現場では時として昼夜を分かたず業務に集中しないといけないことがあります。その実務家の集中力は、研究テーマを追求していくときに大変役に立ちます。

 2017年に現場をようやく再訪できた。ニューヨークの9-11メモリアルで。

実務家と大学研究者の「二足のわらじ」を履いて

学位をいただいたのは2011年の春、東日本大震災の直後でした。やはりリベラルアーツの大学院である国際基督教大学の大学院でいただきました。ご指導いただいた西尾隆先生からさまざまな師恩をいただきました。忘れられないのは、五年間にわたり非常勤講師として英語で行政学を留学生に教えさせていただいたこと。学問を教えるためには、教えるほうが教えられるほうの5倍知っていなければならないと言われます。いざ講師として教えるとなると、その5倍を猛然と勉強するようになります。そのときの経験が自分の知の引き出しを少しでも大きくしてくれたように感じています。平日昼間は霞が関の仕事。平日の夜間と週末は日吉の大学キャンパスに駆けつけ、無給大学教員として研究と教育を頑張る。このような実務家と大学研究者の「二足のわらじ」は、結局13年間続きました。2021年4月からは、22世紀型大学で全科目能動型学修、広島からグローバルに突き抜けた広島県立の叡啓大学の専任教員として新たな一歩を踏み出しました。

博士の学位をいただいたのは東日本大震災の直後だつた。学長の鈴木典比古先生と指導教員の西尾隆先生と。

慶應義塾大学大学院SDM研究科でシステム×デザイン思考のイノベーションワークショップを、関心を持つ一般の方が参加できるよう、2012年に同僚たちと開始。

研究者としての心構えはJKの日々で学んだ

顧みると、大学教員として、研究者として、必要なことはすべて実務家時代に勉強したことだったような気がします。社会課題の解決と地球善・社会善のウェルビーイングを自分の研究の「北極星」として、研究を進めること。「鳥の目・虫の目」を持って、全体俯瞰と細部の精緻な分析を両方やること。学際を歩き、研究フィールドを常に広げていくこと。研究テーマは社会課題の中にあり、研究フィールドは自分の足で稼いで探すこと。いったんやり始めたら、全身全霊でやり抜くこと。そして原典と原データに誠実であること。自分が研究できるのは、周囲のみなさまに助けと支援をいただいているからで、いつも感謝を忘れないこと。これらはすべてJKの日々で学んだことです。実務家になった最初の日を忘れないように、これからも大学の研究者として精進してまいりたいと思っています。

Writer:叡啓大学ソーシャルシステムデザイン学部学部長・教授 保井俊之