脳梗塞で右半身麻痺から博士号取得、迷ったら前へ

奧山睦、左は指導教官の前野先生

2022年3月28日、慶應義塾大学大学院学位授与式が日吉記念館で開催されました。私は慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(以下慶應SDM)の博士課程を修了し、博士(システムデザイン・マネジメント学)の学位記をそのとき授与されました。実に7年かかりました。それだけに感慨もひとしおでした。

学ぶ・教えるの同時進行の日々が始まった

大学は武蔵野美術大学実技専修科で油絵を専攻しました。ひたすら絵を描く生活を送っていましたが、職業とはどうしても結びつきませんでした。卒業後は、すぐに就職する気にはならず、父が経営する法律事務所で事務のアルバイトを1年間しておりました。その後、エディトリアル・デザイナーとしてある企業に就職し、書籍や販促物制作のノウハウを学びました。そして1990年に書籍やホームページ等の企画制作を主とする株式会社ウイルを創業し、現在に至ります。2005年、一冊の書籍を書いたことが大学教育と関わるきっかけになりました。『メイド・イン・大田区』(サイビズ)というタイトルの書籍で、大田区の中小製造業約20社のルポルタージュです。私の実家の祖父は中小製造業の経営者で、現在では義弟が4代目となり約80年続いています。よって、私にとって「中小製造業を書く」ことは自然な流れでした。その書籍がたまたま静岡大学大学院工学部の相原憲一先生の目に留まりました。工学部がある浜松も中小製造業の集積地です。以来情報交換が始まり、2007年4月からは同大学院で「客員教授に」というお話へ発展し、現在に至ります。実は同時期、法政大学大学院政策創造研究科修士課程へ入学することが決まっていました。雇用政策の重鎮である諏訪康雄先生(現・法政大学名誉教授)と、厚生労働省管轄のテレワークの協議会で長くご一緒させて頂いており、諏訪先生が同研究科の立ち上げに関わっていらっしゃるというお話を聞き、入学を決意しました。こうして私にとってはまったく予期していなかったことでしたが、学ぶ・教えるの同時進行が始まりました。また修士課程在籍当時から地域活性学会に入会し、研究大会にも何度か参加し、投稿論文も何本か出させて頂きました。

脳梗塞で右半身麻痺、1年間の闘病生活後、博士課程入学に至る

修士課程を2011年に修了し、2年後に突然、大病を患いました。脳梗塞で右半身麻痺になってしまいました。1年間必死にリハビリに励んだ結果、右脚に若干麻痺が残ったものの、8割がた元に戻りました。そんな中、2014年、網走の東京農業大学オホーツクキャンパスで開催された地域活性学会研究大会に参加しました。そのとき会場で偶然、慶應SDMの前野隆司先生、保井俊之先生に出会いました。研究大会後に前野先生の研究室に伺っていろいろとお話をさせて頂き、「この研究室なら再起が出来るかもしれない」と思いました。前野先生は私の病気や今後の生き方への迷いなどをありのままに受け止めて下さり、気持ちが楽になりました。日本のWell-Being研究の第一人者だったことが大きかったのかもしれません。その翌年2015年4月に慶應SDMに入学しました。そしてまた次の学ぶ・教えるが始まりました。同時期に日本女子大学家政経済学科より女性のキャリア教育のために、学部生だけではなくリカレント生も対象とした授業で「非常勤講師に」というお申し出を頂いたのです。

国際学会への参加と新たな大学との関わり

2017年2月、地域活性学会ニュースレターで「ヨーロッパのUddevalla Symposiumについて」という早稲田大学大学院ビジネススクールの吉川智教先生の記事をたまたま目にしました。これはヨーロッパを中心とした地域のイノベーションや、地域活性化に関するスウェーデンを拠点にした学会です。そのとき即座に「参加したい!」と思いました。実は2014年、同学会で研究発表をする予定でした。その2週間前に脳梗塞が見つかり、渡航にドクターストップがかかり、断腸の思いで参加をキャンセルしました。そこにまた参加ができるチャンスかもしれないと胸が高鳴りました。
主査の前野先生にご相談したところ、共著論文としてチャレンジすることにご了承を頂きました。そして副査の保井先生は国際学会へのアカデミック・スキルに長けていらっしゃったことから、徹底的にご指導頂きました。当時の保井先生はワシントンに在住されていました。それによって無事に学会発表、プロシーディング掲載となりました。その後国際ジャーナルへの査読論文掲載にもつながりました。その時の論文は、大田区の下町ボブスレーネットワークプロジェクトの構成員の幸福度と連携がもたらすイノベーションについてのものでした。2018年、再度同学会に参加しました。論文テーマは、墨田区の江戸っ子1号プロジェクトを核として生まれた地域の協創デザインについてでした。そしてこれも無事に学会発表、プロシーディング掲載、国際書籍に査読論文掲載となりました。調査で何度か墨田区を訪問した際に、たまたま墨田区初の大学、情報経営イノベーション専門職大学が出来るというお話を伺いました。後に私が国際学会で墨田区の産業集積について発表をしたことが大学の耳に入り、「客員教授に」というお話を頂きました。このように私にとっての大学教育との関わりは、ご縁がご縁を呼ぶものでした。

2017年6月 スウェーデンのUniversity Westで開催されたUddevalla Symposiumでの発表風景

2016年3月 「国際幸福デー」を記念して代々木公園で開催されたイベント。慶應SDMの関係者と。写真向かって右から3番目が前野先生、隣が筆者。一番左が保井先生

病気は不便だけれど不幸ではない

慶應SDMに入学して4年4か月で、なんとか博士号に必要な査読論文3本が通りました。残るは博士論文執筆だけ、という矢先のことでした。眼底出血を起こし、左目が突然見えなくなりました。半年後、レーザー治療を受けてなんとか見えるようになりましたが、酷い飛蚊症が残りました。主治医からは夜間のPC使用を禁止されました。約1年間は眼病治療のために博士論文執筆がまったく出来ませんでした。ようやく執筆を始めたのは5年目の半ばでした。博士課程に在籍できるのが最長6年ですが、「特例として6年目の3月までに研究科委員会で博士論文の審査会が立ち上がれば、課程内で博士号が取得できる」と前野先生に伺いました。そこで最長パターンでの取得を目指しました。そして何度かの審査のプロセスを経て2022年3月2日、研究科委員会で博士号授与が決まったと学生部から連絡を頂きました。主査、副査の先生方は長い間、私が博士論文を仕上げるのを待っていて下さいました。また、大学院の先輩や同期生、同じゼミのみなさん、取材でお世話になったみなさん、その他たくさんの方々のご支援があったからこそ、ここまで来ることができました。感謝の気持ちでいっぱいです。何よりも慶應SDMでの院生生活が楽しく、様々な逆風があったものの、それすら吹き飛ばしてくれるほど幸福感に満ちていました。この数年は病気と共存しながら仕事をし、学び・教えるという日々でした。振り返ると決して順風満帆とは言えませんでした。ただ、これだけは確信しています。「病気は不便だけれど不幸ではない」ということ。負のリソースを受け入れても、博士号取得ができたことを、今後は大学の担当授業で学生たちに伝えていきたいと思っています。「迷ったら前へ」。そうすれば未来の扉は必ず開き、明るい光が降り注いでいきます。

2019年4月 静岡大学大学院の授業にて。「子ども食堂」をテーマに、貧困の連鎖を食い止める方法を考えるワークショップを開催

Writer:静岡大学大学院客員教授 奧山睦